心配と詮索は紙一重

前回、心の整理代わりに記事を書きなぐった。

書いてから少しして、どうもここがしんどかったらしい、という事が一つ分かった気がするので、備忘録として記すことにする。


さて、私は学生である。
学生であるという事は、次年度どこに所属しているか、という事が、先生以外には直接関係ない、という事である。
たとえ研究室を仕切っている先輩であろうが、同期であろうが、仕事をしている訳ではない以上、先生以外に進路を報告する義務はないはずなのだ。
もちろん来年からの係の割り振りもあるだろうが、極端な話、そんなものは4月に変わってから決めたっていいのである。
研究の引き継ぎ?卒論を見てくれ。それで分かるように条件まで詳細に書いてあるしそもそも私のテーマは来年存在し得ないのだから関係ない。

本当に、立場として、先生以外に報告の義務はないはずなのだ。

そして今現在、私の立場は非常にややこしい状況になっている。だから、つい昨日に進路を聞かれた時に、「ややこしい事になっているからまだ分からない」と言ったはずなのだ。結構沢山の人の耳がある中で、そう答えたはずなのだ。
なのに、今日、また聞かれた。
私を心配してくれているのか、来年からの研究室が心配なのか、私にはちょっと分からない。だが、昨日その質問には回答したはずだ。
当人である自分から言うならともかく、言わない人間を(しかも前日に分からないと答えている人間を)つついて情報を引き出す必要はないと思うのだ。

こういう、心配だか詮索だか分からない事がしょっちゅうあるのが、かなりしんどいんだと思う。


どうも、同期達は互いの進路を把握したがるのかそれとも単に情報通なのか、研究室外の同期の進路も知っている。誰がどこの院に行くとか、誰はどこに就職だとか。結構そんな話をしている。
こう言うのはなんだが、それは本当に興味のある話題なんだろうか。
私などは、他人の進路は自分の進路に関係ないだろう、と思ってしまうのだ。逆もまた同様で、私がどこに行こうが、友人でもない、多分研究室を出たら話をするかも怪しいあなたたちに関係ある?と思ってしまうのだ。

研究室の同期や先輩程度の距離感の人(きっと仕事をしている人だったら単なる同僚程度の人になるのだろうか)に、進路だとか、恋人の有無だとか、そういう踏み込んだ話をされるのが、本当に嫌だ。
必要以上に詮索されるのがとても嫌いだ。
踏み込んでくる人が多いのも、きっとここがだめになった原因の一つだ。
おまけに皆その内容でもって陰口のようなことも結構言うから、きっと私も裏では色々言われている事だろう。同期程度によくそこまで興味が持てるものだと思う。

もしかしたら、私は他人に興味が薄いのかもしれない。
だから純粋な心配を詮索だと思ってしまうのかもしれない。
とはいえ、こういうものはきっと紙一重なんだろうと、そうも思うのだ。

心の整理になるかと思って書いている

なんでこうなったのか自分でも分からないのだが、「大学で研究をする」という事へのモチベーションがぷっつりと途切れてしまった。
大学4年の、この時期に、である。

より正しくは、年が明けて、研究室が再開してから、私は今の研究室で研究するモチベーションを保てなくなっていた。それが、今になって完全に潰えた形だ。

研究自体は楽しい。手を動かし参考となる論文を集め理論を組み上げる、その行為自体はとても楽しくて好きだ。それはずっと変わらない。
だけど、来年今の研究室で研究をすると思うと、絶対に嫌だと思ってしまう。
そして、「大学で」研究をする事が、「企業あるいは研究所で(アカデミアではない場所で)」研究をする事の魅力を大きく下回ってしまった。

もともと今いる場所以外の大学院が本命で、色々な院を受けていたが、結局今の所属以外は不合格になっている。今の所に進学するのか、研究テーマは変わっちゃうけどそれもありだな、と思っていたはずだったのだ。
年内までは確かにそう思っていたのだ。
それがなぜかだめになった。

ボスは好きだ。同期も嫌いではない。先輩は苦手な人もいるが、まあやっていけない事はない。そう思っていたのだ、年内まで。

年末年始を帰省して、リフレッシュして研究室に戻って来たら、研究室の学生の雰囲気が、だめになっていた。

なぜか。私にも分からない。理由を教えてほしいくらいだ。

微妙に馴れ合うような雰囲気がだめだったのか。
ボスの顔色を伺う空気がだめだったのか。
時折現れる人間関係の歪みがだめだったのか。
上が居なくなると暴君になりそうな先輩が発言権を持ちつつあるのがだめだったのか。
横の風通しが悪く、ボス同士の仲の良さで使える機器に制限がかかるのがだめだったのか。
あの大学特有の閉鎖的な所がだめだったのか。

あるいは、そういうものが積もって臨界値に達してしまったのか。

分からない。分からないが、だめになってしまった。
私は、とにかく来年、あそこに居たくない。
あそこで研究をしたくない。
今精神科に行ったら、鬱病の診断をもらってしまう自信がある。そして、我慢してここの院で研究したら、間違いなく途中でより重度な鬱になると確信できる。
他の大学で研究生になるという手も考えたが、大学での研究、と考えただけで拒否感を覚えてしまったので、ここの院に進むという選択肢と合わせて却下した。

そうすると就活しかないので、どうにかして職を探したい。そう思ってしまった。この時期に、だ。

今は、大学院落ちというのは、この時期に就活をする人間の中では相当まともな理由だと思うので、話し方によっては企業への印象もプラスにできるだろうというこずるい計算をしている。
そりゃあ研究は好きなので、できれば研究職がいいが、事務職だって好きだから、職種にこだわりはあまりない。
ならまあ、様々な手を駆使すれば、どうにかなるかな、と思うのだ。

少なくとも、あそこに居るよりは精神的にずっとマシになるはずだ。


本当に、なんでだめになったんだろう。
研究は楽しいのに、ボスは好きなのに、どうしてだめになったんだろう。
私に何か欠陥があったのかな。
巡り合わせの問題だったのかな。
なんでだろう。なんでなんだろう。
考えても仕方ないのだけど、考えてしまうから、こうして書いてみた。

「少女革命ウテナ」を大爆走した感想

1997年に放映されていたアニメ「少女革命ウテナ」を見終えた。

一挙放送の期間短くない?と思っていたが、3、4日で走り抜けてしまった。

あまりに美しい終わりで、その余韻が抜けないが、今のうちに感情を綴っておきたい。

 

 

この話は、OPにすべて集約されていた。

OP曲「輪舞-revolution」の歌詞も然ることながら、刮目すべきは映像だ。

ウテナとアンシーが太極図の陰陽のように目を閉じているところから始まり、男子生徒が歩いていく中で振り返るウテナと対照的に女子生徒が歩いていく中で振り返るアンシーが映される。

箱庭の中の箱庭であるバラ園で二人穏やかにたたずむ姿から、白バラを差し出して微笑むアンシーとそれを受け取り戦うウテナを経て、サビで映されるデュエリスト達の姿。

セル画とは思えないほど瑞々しい色彩と動きが駆け抜けた後に続く、ウテナとアンシーが手を取り合おうとしてウテナだけが落ちていくワンシーンは完全に最終回のそれだ。

そして、最後にはウテナだけが目を閉じ、曲の最後のフレーズが流れる。

 

最初はただカッコいいOP曲とサビ演出だと眺めていたが、23話を過ぎたあたりで「おや?」と首を傾げ出し、最終回を見終えた今となっては「たとえ二人離れ離れになっても 私は世界を変える」で胸がきゅっとしめられる感覚に襲われるようになった。

ストレートな歌詞と演出が刺さって抜けない。最初からこの結末にたどり着くための3クールであったし、最初から決まっていた結末だからこそのOPだ。

 

 

さて、物語そのものは、少年少女たちの友情物語であり、成長物語であった、と感じている。

 

主人公であるウテナは、初期は自分自身の理想である「王子様」との同一化を掲げていた。彼女の王子性と少女性は黒薔薇編まではまったく揺らがず、危ういバランスを保って輝き続ける。

それが、鳳暁生編に入り、大いに揺らぐ。大人の男の象徴である暁生に惹かれ、無垢な少女は皮肉にも、かつて石蕗に言った「いろんなこと」を知る。

知ってなお、ウテナはアンシーと向き合い、受け入れた。アンシーを拒絶するでも厭うでもなく、ひたむきに手を伸ばした。

そして、少女は確かに「革命」を為した。

 

一方、ヒロインであるアンシーは、初期はまるきり人形のような少女だった。自我がなく、ただ勝者に隷属するトロフィーだった。抑圧された自我の象徴であり、古いジェンダー観の象徴であったようにも思える。

それは物語終盤まで変わらず、周囲の成長に一人置いて行かれる彼女は、演出も相まっていっそ不気味であった。

アンシーの変化は、黙示録編に入ってようやく表層にはっきりと現れる。アンシーの秘密を知っても揺らがなかったウテナの姿が、彼女を変えた。利害なくただ自分を想って伸ばされる手があることを、彼女は知ったのだ。

そして、少女は確かに「革命」を為された。

 

革命を為し為された少女たちが、「いつか一緒に輝く」ことを夢見て未熟さと幼さの現れである学園から去っていくシーンで物語は幕を下ろす。

鳥肌が立つほど美しいタイトル回収である。

 

 

 

備忘録として、好きなシーンを書き留める。

 

まずは何よりも最終話「いつか一緒に輝いて」で、ウテナとアンシーが手をつなぐ所だ。

二人の指先が触れ合い、つなぎ直される瞬間は、ウテナだけが手を伸ばしていた第37話のラストシーンがあってこそ輝く。

その後のウテナのセリフ、「ごめん姫宮、王子様ごっこになっちゃって、ごめんね」は徹底的に強い存在だったウテナが見せた弱さであると同時に、視聴者にとっての勝鬨であった。

ウテナは王子様になれなかった代わりにアンシーの友人になり、アンシーを解放したのだ。これが革命でなくてなんであろうか。

 

次に、第37話「世界を革命する者」での二人のやりとりだ。

紅茶を傾けながら、二人はこんな会話をする。

「カンタレラってご存知ですか? 昔イタリアのボルジア家が使っていた猛毒の名前です。いかがですか? そのクッキー。それ、私が焼いたんです」
「偶然だね。その紅茶も毒入りなんだ」

イタリアのボルジア家といえば、やはりチェーザレとルクレツィアの近親相姦の噂と、政治における暗躍が浮かぶ。兄の暁生に翻弄されるアンシーの境遇そのままだ。

ルクレツィアはボルジア家の政治手段として使われ続け、本人が政治的陰謀に関わっていたかは定かでない。しかし、アンシーはあえて「私が毒を入れた」と告発することで隠し続けていた裏切りを認める。ウテナはそれに対し、「自分も毒入りの紅茶を君に差し出した」と返すことで、裏切りの事実をアンシーに差し出した。

二人は事実を認めてなお、クッキーと紅茶を口にし続ける。それはきっと、様々な感情を抱えた上で、互いが互いを赦した瞬間だった。

 

話としては第7話「見果てぬ樹璃」とそれを受けての第29話「空より淡き瑠璃色の」が大好きだ。

7話ラスト、樹璃の独白での演出がまず素晴らしい。

「こんな私を、あなたは憎んでますよね」

「そう、憎んでいるさ。私の思いに、君は気づきもしないんだから」

そこまでは親友に好きな人を取られた、というようにミスリードしておきながら、ここで樹璃のロケットペンダントの中身が映され、上記のセリフだ。

樹璃は決して枝織に思いを告げようとはしない。第17話「死の棘」で、枝織に思いを知られるが、やはり枝織に面と向かって言うことはない。それが更に切なさを掻き立てる。

第28話で、樹璃の所属するフェンシング部の正式な部長だった瑠果が登場し、三角関係が描写される。

枝織を想い、幸せを願い、けれど自分にも奇跡が起こることを望んでしまう樹璃。

樹璃の思い人である(と、思い込んでいた)瑠果と付き合うことで樹璃に対する劣等感から逃れようとしていた枝織。

樹璃を想うが故に悪役に徹し、樹璃を枝織への呪いのような想いから解放しようとする瑠果。

樹璃と枝織と瑠果の三角関係は、どこまでも一方通行だ。

 

そして、第29話だ。

ウテナと樹璃の決闘で、瑠果が樹璃の剣を出そうと胸に手をかけるシーンの彩度を落とした艶っぽさあふれる一枚絵は、ポストカードで一枚欲しいくらいである。

決闘の末、樹璃の薔薇は散らされなかったが、ペンダントがウテナの剣によって外れ、壊れる。樹璃はショックのあまりふらふらと壊れたペンダントに歩み寄り、薔薇を自らもぎ取り、決闘を放棄した。この時の足取りは完全に茫然自失としており、表現力に感嘆する。

降りしきる雨の中、瑠果が樹璃に優しい声で囁く。

「樹璃、心配ないよ」

樹璃が呪いのような恋情、もはや妄執になりかけていた気持ちを振り切っても、君は歩いて行ける、と瑠果が背中を押したように感じた。エンディングで枝織が樹璃の後を追いかけても、樹璃はもう振り返らない。これまでの彼女からは考えられない変化だ。

ところで、この話では、椅子が表現技法として使われている。最初2つだった椅子が3つになり、影絵少女たちの噂話の後はまた2つに戻る。

瑠果はきっと、命を賭して彼が望んだ革命を為したのだ。

 

 

長々と書き綴ったが、見終えた衝動も収まって来たので、「少女革命ウテナ」が20年を経て忘れられず愛され続けているのは、物語の重厚さゆえだろうと愚考しつつ、このあたりで筆を置くことにする。

 

なお、書き忘れていたが、キャラクターとしては樹璃先輩と七実が好きである。